この無益な戦いで最大の利益を得たのは、家康でした。
家康は、東日本の要に置かれていたことで予備兵には置かれていましたが、朝鮮出兵には一兵たりとも出しませんでした。それは本多忠勝ら徳川四天王を含む、主だった徳川諸将も同じです。
出兵の中心となったのは、島津家をはじめとする西側の諸将と加藤清正、小西行長ら豊臣子飼いの武将でした。彼らは、何も得るものもなく兵を損耗し、軍費を吐き出しました。
豊臣諸将を大いに弱らせた朝鮮出兵
結果として、この外征が終わるころには無傷で国力を蓄えた徳川軍団が国内で文字通り最強となりました。秀吉の外征は、結果として豊臣諸将を弱らせ、徳川諸将を太らせる皮肉な結果となったのです。
なお、豊臣政権のほとんどの政策を引き継いだ徳川政権ですが、朝鮮および明との外交に関しては秀吉の構想を否定し、平和的な解決を目指します。
1605年に家康によって開始された和平交渉は2年後、二代将軍秀忠によって朝鮮とのみ結ばれます。
【2023年10月10日20時35分追記】初出時の「明」に関する記述の一部を修正しました。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら