九州征伐を終えた秀吉は、小田原攻め、奥羽仕置と、東日本への統治を進めて天下統一を成し遂げるのですが、ここで秀吉が大抜擢したのが家康です。
秀吉は、家康を関東、奥羽仕置の要として、左近衛大将に昇進させました。名実ともに豊臣政権のナンバー2に据え、東日本は家康に任せる体制をとります。
その間にも秀吉は、朝鮮に威圧的な外交を行っています。つまり天下統一の仕上げと同時に唐入りの準備は着々と進んでおり、秀吉としては、その準備に専念するためにも能力の高い者に東日本を任せたかったわけです。
家康は適任でした。関東への転封も、その意味では絶対的に必要なことで、よく言われる家康の力を削ぐためやいじめのような理由ではなく、秀吉にとっては早く念願の唐入りを進めるための措置だったと思われます。
秀吉の誤算
ただ秀吉は、いくつかの点で大きな見誤りをします。秀吉は、海外外交において稚拙で、思い込みが激しかったのです。
まず1587年に秀吉は、朝鮮に対して自分に従属せよとの頭ごなしの外交を行います。これは朝鮮の窓口である対馬・宋氏の誇大な主張を鵜呑みにしたことによるものでした。琉球が薩摩に従属していたことから、朝鮮も対馬に従属していると勘違いしたのです。
実情は宋氏のほうが従属的な立場でした。豊臣政権の大きな欠陥は、海外への侵攻を計画しているのに、相手国の実情をろくに調べもせず事実誤認のまま計画を進行させてしまったことにあります。そして、それは窓口である宋氏の二枚舌をそのまま許すことになり、その後の状況判断をことごとく狂わせてしまいました。
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