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小早川秀秋は、寧々の兄・木下家定の五男として生まれました。1585年に叔父である秀吉の養子になり、叔母である寧々のもとで育てられます。
このころ秀吉は内大臣に任じられ、紀州征伐、四国征伐の最中であり、天下統一を目前にしていました。
秀吉の養子となった秀秋
武士の出ではない秀吉には、その権力を強くするために身内を抜擢し、秀秋も、重要な秀吉の後継者候補として丹波10万石を与えられます。秀秋は、幼少期は蹴鞠や舞などを学び、貧者に施しを与えるなど心優しい少年で、秀吉や寧々にも期待されていたようです。
当時、実子に恵まれていなかった秀吉の後継者と目されていたのは、年長で従兄弟の羽柴秀次でしたが、秀秋はその秀次に次ぐ後継者候補でした。秀秋は、わずか7歳で元服し、関白・秀次に次ぐ中納言の位を与えられます。
このため諸大名は、秀秋(この当時は秀俊と名乗っていました)に取り入ろうと押し寄せました。その結果、秀秋は7歳にして毎晩、酒を飲むことになります。
現代では少し考えられない話です。この秀秋の状況が大きく変わったのが、秀吉の実子である秀頼の誕生です。
秀吉は実子・鶴松を亡くしていましたが、秀頼はすこやかに成長していました。このため秀吉は、まず後継者の第二候補である秀秋の身の置き場を考えます。
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