三成の脇の甘さは毛利を相手にしてもそうですが、外交スタイルは通り一遍で、相手の家中のパワーバランスなどを観察して完全に相手の組織を取り込むようなきめ細かさがありません。彼の師である秀吉は、そうした細かい調略の天才でした。
さらに秀吉には、その道の天才である軍師・黒田官兵衛がいましたが、三成にはそうした軍師はいません(島左近は軍事面での軍師であり外交面でその才を発揮することはありませんでした)。逆にその官兵衛の息子・長政が家康のために、その働きを行っていたのは皮肉なものです。
三成は、毛利家対策をすべて安国寺恵瓊に丸投げしていたため、家康に近い吉川広家の動きを察知できませんでした。関ヶ原では、毛利本軍どころか一緒に行軍していた長曾我部軍まで無効化されてしまいます。三成は外交戦の細かい詰めで、いわゆる東軍にまるで歯が立たなかったのです。
秀秋、突然松尾山にあらわる
秀秋は、決戦の前日である9月14日に突然、1万5千もの兵を率いて松尾山城にあらわれます。これによって先に松尾山城に入っていた伊藤盛正は追い出される格好に。この小早川軍の動きに危機感を抱いた大谷吉継は、松尾山城に向かって陣を構築します。
西軍にとってこの状態は、最初から側面を敵に晒しているようなものです。ただ秀秋は東軍につく態度も見せていなかったようで、家康もまた秀秋の真意をはかりかねていました。最近の研究では、戦端が開かれてすぐに小早川軍が大谷隊に攻めかかったという見方もあります。
大谷隊の奮戦でいっときは小早川軍を防いだものの、大谷隊の崩壊とともに西軍は総崩れになりました。結果として毛利、小早川という大戦力の手綱を引けないまま関ヶ原の戦いに臨んだ三成および西軍首脳の詰めの甘さと、徳川家康という生ける伝説のような有形の権威のもと一枚岩となった東軍との差が、明瞭に出た戦いとなりました。
わずか半日で決着がついたのも、ある意味、あたりまえだったのかもしれません。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら