秀秋は、関ヶ原の戦いでの功績を家康に高く評価され岡山55万石を与えられます。しかし、その評判は芳しくなく、世間は当時から小早川家の行動を「戦場での寝返り」として、卑怯な行為と受け取られていました。
これは、「寝返り」という行為よりも、秀秋に武将としての実績がなく能力もないのに、秀吉の身内というだけで大大名になっていたことに対する批判でもありました。無能ゆえ武門の名誉も顧みず、寝返りのような卑怯な行為を平気でしたという評価です。
22歳の若さで亡くなり改易
秀秋は関ヶ原の戦いから2年後、22歳という若さでこの世を去りました。
これは秀秋の裏切りで憤死した大谷吉継の呪いという噂が流れましたが、実際のところは幼少期からの飲酒によるアルコール依存症に端を発した内臓疾患が原因だったようです。秀秋は子がいなかったため無嗣断絶で改易となりました。
秀秋の大大名としての人生は秀吉によってつくられましたが、彼の関ヶ原での行動により、その秀吉の天下は無に帰しました。
このような皮肉な役割を果たしたのが、小早川秀秋だったのです。
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