石田三成は1574年ごろから父・正継、兄・正澄とともに当時長浜城主となった羽柴秀吉に仕えたとされています。
逸話では、秀吉が鷹狩の帰り、立ち寄った寺院で茶を所望した際に対応した寺小姓(三成)が、最初に大きめの茶碗にぬるめのお茶を、次にやや小さめの茶碗にさきほどより少しだけ熱いお茶を、そして最後に小さな茶碗に熱々の茶を出して対応したことに感心して、小姓に取り立てたというものがあり、三成の機転を表すものとして語り継がれていますが、真偽のほどは定かではありません。
当初は、のちに犬猿の仲となり加藤清正や福島正則らとともに秀吉のそばで薫陶を受けます。秀吉が天下を握る転機となった柴田勝家との一戦、賤ヶ岳の戦いでは、先駆けで一番槍(先頭を切って戦果を上げる)の武功をあげました。どちらかというと官僚としてのイメージが強い三成ですが、若き日は清正や正則と勇敢に戦場を駆けていたようです。
三成の才能が開花
三成の才能が開花するのは、秀吉が関白に就任し名実ともに天下人になってからです。秀吉は三成を堺奉行に抜擢します。堺は当時の経済の中心であり、大坂に拠点を置く豊臣政権にとって重要な場所でした。さらに、堺は商人たちの自治区であり独立の気風の強い場所でもありました。
三成はこの堺の統治を見事に成し遂げ、堺を経済だけでなく、兵站基地としての機能ももたせます。この効果は、九州征伐でいかんなく発揮されました。陸路だけでなく堺からの海路を活用することで大軍の兵站を円滑に運用し、結果的に九州征伐を短期間で終わらせることに貢献したのです。
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