ここから読み取れるのは、三成は自分より目上と思われる人物にも気を使わせる態度があったように思われます。諸大名たちにとっては、やりにくい相手だったのでしょう。気を回し、なにごとも穏便にことを運んでくれる秀吉の実弟の豊臣秀長や黒田官兵衛のほうが人気がありました。さらに、そうした三成に対して、小姓時代からの同輩である加藤清正や福島正則は快く思っていませんでした。
唐入りで武断派との決定的な軋轢が
1592年に秀吉は、以前から計画していた唐入りを実行に移します。この外征は、いくつもの事実誤認により進んでいくのですが、当初は連戦連勝だったものの明が本格参戦してくると戦線は膠着状態に。結果として、この戦いは和睦することになるのですが、ここで三成は「明が降伏した」という嘘の報告を秀吉に上げることになりました。それまで忠実に秀吉の施策を実行し、または、その実行部隊の監視をしていた三成が初めて秀吉に虚偽の報告をした瞬間です。
この戦いは、そもそも朝鮮との対応窓口であった宋義智と小西行長が朝鮮の実情を秀吉にまともに報告しなかったために起こりました。その場しのぎの嘘を重ね、和睦のタイミングでも嘘を重ねることになります。
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