そもそも家康と三成はそれまで目立った対立はありませんでした。関ヶ原の合戦後の三成の子どもたちに対する家康の寛容な処置をみても、家康は三成を評価はしても敵とみなすようなことはなかったように思えます(政権内での立場に差がありすぎるということもありますが)。
家康にとっては、加藤清正、福島正則を筆頭とする秀吉子飼いの大名たちが勝手に自分の影響下に入ったことは大きな自信となり、さらにチャンスと捉えるようになりました。
豊臣政権を分断する家康の謀略
家康にとって豊臣政権などは、正当性もなにもない怪しげなものでしかありません。秀吉自身、信長が掴んだ天下を盗み取ったのではないかという気持ちがあったと思います。
家康は、秀吉が信長亡きあとの織田家を簒奪したときと同じ策を使います。それは政権内を二分化させて戦いを起こし、実力で奪い取るという手法です。
家康は政権内のクーデターではなく、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いのような大戦を望んでいました。
いっぽう三成は清正らが家康を担ぎ出したことで、その対抗上、家康の権力を削がなければならないと考えます。ここで三成は家康を敵視するようになり、さらには自身が失脚(清正ら武断派七将が三成襲撃を企てて騒動が起き、家康が救済する代わりに三成は職を解かれることになった事件)すると、その危機感はいっそう増すことになりました。
三成は、自身の立場を逆転するには家康を排除すべく対抗勢力を形成しなければと考えます。それこそが、家康が待ち望んだことでした。
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