秀吉が朝鮮出兵で掲げた「壮大すぎる構想の中身」 出兵の際に、徳川家康は何を担っていたのか
天正19年(1591)8月、豊臣秀吉は、翌春に唐入り(明国※現在の中国、征服)を行うことを諸大名に告げたが、秀吉の侵攻対象は明国だけではなかった。
「南蛮国」(ルソン・マカオ・ゴアなどのポルトガルやスペイン領)をも支配下に置く構想を示していたのだ。また、大陸を制覇した暁には、後陽成天皇を北京に移して皇帝とし、日本においては後陽成天皇の皇子・良仁親王か、智仁親王を帝位につける野望を秀吉は持っていた。
東南アジアやインド侵攻の指揮も目論む
さらに、秀吉は、寧波(中国浙江省)を拠点とし、東南アジアやインド侵攻の指揮をとることを目論んでいた。その手始めとして、秀吉は朝鮮に入貢を求め、明国出兵を先導するように命じたのである。
しかし、朝鮮側は明国への先導を拒否し、開戦の気運が高まることになる。秀吉は唐入りの拠点として、肥前国名護屋(佐賀県唐津市)に築城することにし、九州の諸大名(黒田長政・加藤清正ら)がその役割を担った。
天正19年(1591)12月には、秀吉は甥の秀次に関白職を譲り、太閤となった。翌年の天正20年(1592)に、秀吉は朝鮮出兵を号令。全国の諸大名が肥前名護屋に集結する。もちろん、徳川家康も例外ではなかった。
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