秀吉が朝鮮出兵で掲げた「壮大すぎる構想の中身」 出兵の際に、徳川家康は何を担っていたのか

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正月は江戸で過ごしていた家康だったが、2月上旬には江戸を出発した。京都に入った後、3月17日に京都から肥前に向かうことになる。4月下旬には、肥前名護屋に到着したと思われる。徳川軍は1万5000もの大軍であった。

朝鮮出兵の軍勢は「9番」で編成され、1番は小西行長・宗義智ら、2番は加藤清正・鍋島直茂ら、3番は黒田長政・大友義統ら、4番は島津義弘ら、5番は福島正則・蜂須賀家政ら、6番は小早川隆景・毛利秀包ら、7番は毛利輝元、8番は宇喜多秀家、9番は羽柴秀勝・細川忠興ら、全軍約15万もの大軍勢であった。ここから、九州・西国(中国地方)の大名を中心に構成されていることがわかる。

徳川家康・前田利家・伊達政宗・上杉景勝など東国・東北の大名は、渡海せず、名護屋に予備軍として控えることになる。

朝鮮半島にわたらなかった家康

家康の軍勢は、朝鮮半島にわたって戦うことはなかった。それは軍隊編成の序列が後方であったからだ。このことは家康にとって、幸運だったと言えるだろう。

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名護屋城跡(写真: たき / PIXTA)

4月、日本の軍勢は、唐入りへの協力を拒否した朝鮮国に攻め込む。5月3日には、朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を陥落させるという戦果をあげた。

この勝利の報告を得た秀吉は、冒頭に示した後陽成天皇を北京に移すなどの壮大な構想を示すことになる(5月18日)。

ちなみに、関白・秀次も北京にて「大唐関白」として政務に当たることになっていた。日本に関しては、秀次の弟・秀保か宇喜多秀家を関白とする構想を抱いていた。

この秀吉の構想から見えてくるのは、秀吉とその親族が皇室を推戴する形で、東アジア世界を支配しようとしたことである。

ただし、後陽成天皇は、朝鮮への出兵に反対であった。「出兵を取り消してほしい」と秀吉に宛てた書状の中で述べられている。それでも出兵は強行され、いずれは、秀吉自らも渡海することになっていた。

それを強く止めたのが、家康と前田利家であった。「秀吉の船が出た後、それに従う者たちは、風雨の難があっても、晴れを待ち逗留するだろうが、競って渡海しようとする者は上手く状況判断ができなくなる」「思わぬ風難により秀吉の身にもしものことがあったら、天下が乱れる」と2人は諫言したという。

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