秀吉が朝鮮出兵で掲げた「壮大すぎる構想の中身」 出兵の際に、徳川家康は何を担っていたのか

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秀吉の渡海は翌年の3月まで延期されることになった。秀吉の渡海には、後陽成天皇も反対され、「高麗への下向、険路波濤を乗り越えていくことは、勿体ないことです。家臣を遣わしても事足りるのではないでしょうか。朝廷のため、天下のため、発足は遠慮なさってください。遠い日本から指示して戦いに勝つことにし、今回の渡海を思いとどまってもらえれば、たいへん嬉しく思う」と秀吉に書状を出されている。

朝鮮半島への侵攻は順調に見えたが、朝鮮国王は首都から逃れ、明国に派兵を求めたので、事態は混沌とする。日本軍が明軍を退けることもあったが、朝鮮半島の奥深くに進軍した日本軍には、食糧や武器が届かず、敵方のゲリラ戦もあり、苦境に立たされていった。

文禄2年(1593)3月になると、家康と前田利家の渡海も検討された。結局実現には至らなかったものの、戦況の長期化と渡海軍の苦境や士気の落ち込みもあり、明国との和平交渉が進められる。

5月、明国使節(明皇帝からの正式の使節ではない)を肥前名護屋に迎えることになった。その接待を命じられたのが、家康と利家だった。なお明国使節に対し、「諸大名に召し使う者が、悪口を言わないように」との秀吉の命令があり、家康や利家ら20名が誓約している。

秀吉は「明国使節」と対面し、講和の条件を示した。それは、明皇帝の姫を天皇の妃とする、日明貿易の再開、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮国皇子の人質差しだしなどであった。

明の皇帝の書状で、秀吉が激怒する

しかし、このような一方的な要求では和議はまとまらない。朝鮮に派遣されていた小西行長らは「関白(秀吉)降表」を偽装し、講和交渉を進めていくことになる。小西らの行動は随分と危険ではあるが、ここまでしなければ和平は難しかったのだ。

強硬派の秀吉に和平の件を持ち出しても、反対されることは必須だった。秀吉が「聞く耳」を持っていなかったことが、小西らが危険な行為に出た要因でもあったのだ。

小西らは、日本軍の撤兵と、朝鮮との和解、日本が明国の属国になるとの内容を明国に送る。これを受けて、明の皇帝は、秀吉を「日本国王」にするとの書状を秀吉に送るのであった。

もちろん、このようなことを、秀吉が許容するはずはなかった。秀吉は激怒し、和平交渉は決裂。慶長2年(1597)、秀吉は再び朝鮮半島に派兵することになる。


(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・平川新『戦国日本と大航海時代』(中央公論新社、2018)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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