和睦に関しては遠征していた諸将の合意でもありましたが、三成の報告の上げ方などに不信感が募っていました。これが爆発したのが、2度目の朝鮮出兵である慶長の役です。「虚偽の報告による和睦」と秀吉に言えないまま泥沼の戦いが始まります。そもそも参戦する諸将の士気は低く、また攻め込まれるほうの朝鮮と明の抵抗が凄まじく、日本軍は戦線の縮小を考えました。
しかし、もうこの時点で秀吉にまともな報告を上げることができなくなっていたため、縮小案は秀吉に否決されただけでなく、縮小案を提案した武将は秀吉に処罰されます。これを諸将は、軍監として秀吉に報告する役目である三成のせいだと考えました。
この一連の処罰で国替えとなった小早川秀秋の領地を、三成に秀吉が与えようとしたことから(三成はこれを固辞)三成に対する風当たりは一段と強くなります。秀吉の唐入りは、三成の立場を大きく変えるものでした。
武断派との対立から家康との対立へ
秀吉の死後、この唐入りはなんの成果もあげずに終わります。膨大な兵力と軍費を使った参戦諸将の行き場のない怒りは、三成を中心とする官僚に向けられることに。秀吉が存命であれば、その庇護により立場を守ることもできたでしょうが、秀吉亡きいま三成たちは秀吉の遺言を盾に自派を守ろうとします。
一方、清正や正則ら秀吉子飼いの武将たちで形成される武断派は、五大老筆頭の徳川家康をかつぎあげました。秀吉の遺言という無形の権力に対し、家康と生ける権力で対抗したのです。
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