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「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた石田三成の腹心・島左近は1540年に大和国で生まれました。三成より20歳上であり、関ヶ原の戦いのときには61歳という、当時でいえば高齢の武将でした。
左近が最初に仕えたのは、筒井順慶です。その武名は当時から近隣に轟いており、重臣の松倉右近と共に筒井家の「右近左近」として称賛を受けていました。しかし、その順慶の跡を継いだ定次と折り合いが悪くなり、筒井家を離れます。このとき左近は、すでに44歳でした。
その後、左近は蒲生氏郷に仕えたとも豊臣秀長に仕えたとも言われますが、定かではありません。いずれにしても年齢的にも老境を迎え始めた左近は、早い段階でそれらの家も辞して隠居のような状態となっていました。左近としてみれば、長く仕えた筒井家の手前もあり、もう本格的な仕官をして働く意志はなくなっていたのかもしれません。
三成、島左近を口説く
その島左近に目をつけたのが石田三成でした。左近は当初、この三成の勧誘を断りますが、三成が自分の俸禄4万石のうちの2万石を与えるという破格の条件を提示されたことに胸を打たれ、三成に仕えることを決意します。
この逸話は「君臣禄を分かつ」として有名ですが、その真偽は定かではありません。
左近が正式に石田家の家臣として登場するのは1590年であり、三成が担当した東国の佐竹氏との交渉の中で記された書状に、その名前が見られます。左近が50歳のときのことでした。このとき、すでに左近は石田家の重臣の地位にあったようです。
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