「島左近」老齢の剛将が関ヶ原で放った最期の輝き 戦と人の機微を捉えぬ三成に尽くした忠実なる将

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三成は、家康と対決するにあたって、武将らしい判断よりも手続きや形式にこだわったために、当初からいくつものミスを犯します。最大のミスは、家康の動きを見誤ったことです。

三成は、家康がしばらくのあいだ、上杉やその背後にいる伊達政宗を警戒して江戸で身動きが取れないと考えていました。しかし数多の歴戦により鍛え上げられ最強の武将となった家康は、その三成の予想を裏切り、一気に西軍間近の美濃赤坂に現れます。

この突然の出来事にまったく動じなかったのが、左近です。動揺する味方を鼓舞するために左近は、わずか500の兵を率いて東軍の中村一栄、有馬豊氏を奇襲。宇喜多家の重臣・明石全登とともに勝利します。杭瀬川の戦いです。

三成、最大のチャンスを逃す

この勝利を受けて左近は、島津義弘、小西行長とともに東軍への夜襲を三成に進言します。島津、小西は朝鮮出兵でも多大な戦果をあげた勇将です。左近を含め、これらの武将は皆ここが好機と考えました。

ところが、三成はこの進言を退けてしまいます。三成は、夜襲で勝敗が決することはないと考え、決戦を見据えていました。これは決戦前に兵を損耗することを恐れての判断です。合戦経験の少なさが、三成の判断を誤らせました。しかも、その態度に島津義弘がへそを曲げてしまいます。

もともと義弘は家康に味方するつもりでしたが、成り行きで西軍についていました。そういう事情から義弘は消極的だったのですが、左近の奇襲の成功で勝機を感じ取って、やる気を出したのです。

ところが三成による戦の機微を無視した判断と、その横柄な態度に腹を立て、翌日の関ヶ原の戦いでは戦闘に加わらない独自の対応にでます。島津勢は、数は少ないものの、その軍の精強さは西軍の中でも群を抜いていました。三成は兵の損耗を恐れるがあまり最強の島津勢を決戦前に失ってしまったのです。

もしも夜襲が行われていたら、もしも精強な島津軍の力を存分に発揮させられていたら……。こうした発想をもとに上梓したのが『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』です。

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