「石田三成襲撃事件」で一人ほくそ笑む家康の心奥 豊臣の天下を守る気で分裂させた実直すぎる三成

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この功績を認められて九州平定後に博多奉行を命じられ、秀吉の軍師である黒田官兵衛とともに博多の復興に従事します。このあたりから秀吉は三成の官僚としての才能に目をつけ、次々と検地などの重要施策を任せるようになりました。それは同時に諸大名との折衝が増えることとなり、三成の存在は大きなものとなっていきます。

三成自身は、官僚ではなく、武将としてのキャリアを望んでいた節がありますが、秀吉は三成を豊臣政権における官僚の中核に育てようとしました。もっとも秀吉が存命の間は、三成の官僚としての地位は3番手から4番手だったようで、筆頭ではありませんでした。

豊臣政権での三成の影響力が増す

秀吉は、武力による国内統一と新しい国家づくりを同時に行っていました。したがって官僚といってもその仕事は多岐にわたり、戦争の遂行とその事後処理、さらにその地域の統治体制の確立と、膨大な量です。三成はおそるべき処理能力で、それらの仕事を完遂していきました。

戦後処理とその後の統治に関わることにより、三成の権威は職責よりはるかに大きくなっていきます。その威勢は凄まじく、当時の大大名である毛利輝元をして「三成には大いに気を使う」と言わしめ、さらには九州征伐後、三成が担当となった島津義弘は「太閤の股肱の臣で、その勢威は比べる者なし」と語っています。

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