三成が現実に博多の代官になったことから、秀吉が三成に筑前を与えようとしたということもまことしやかに言われ、これが反三成派を大いに刺激することになりました。
秀吉が死ぬと、この件は家康によって蒸し返されます。秀吉の遺命ということで、秀秋は越前から筑前に再び返り咲きます。しかも以前よりも加増され、その石高は59万石にのぼりました。このことから秀秋は、家康に恩義を感じていたものと思われます。
関ヶ原前は流れで西軍につく?
秀秋は西軍として伏見城の戦いに参戦しましたが、その後は積極的に西軍の作戦に参加することもなく、鷹狩りなどをしていたようです。ここは推測になりますが、本家の毛利家が西軍の盟主としてまつり上げられていたこともあり、流れで西軍についたと考えられます。
三成は秀秋に、秀頼の後見役や関白の座などを示唆して歓心を買おうとしました。しかし秀秋がどこまでそれを真に受けていたかはわかりません。
仮に秀秋が興味を示していたとしても実際、それをとりしきる重臣たちは黒田長政らによる調略が行われていました。
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