7歳で酒浸り、戦場で寝返る小早川秀秋22年の生涯 秀吉の後継者候補が豊臣の天下を瓦解させるまで

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目をつけたのは、当主の輝元に実子のいない毛利家でした。その話を秀吉の軍師・黒田官兵衛が、毛利家の重臣である小早川隆景に持ちかけます。慌てた隆景は、秀吉に自ら秀秋を養子に貰い受けたいと願い出て、毛利家に秀秋が入るのを防いだそうです。

秀吉は、そもそも隆景を高く評価し、毛利家の重臣ながら秀吉の直参扱いにしていたので、この申し出にことのほか喜んだと言います。ちなみに、このとき秀秋は12歳。7歳からおぼえた酒に溺れ、すでにアルコール依存症の状態だったようです。

このあと秀吉は謀反の疑いで、後継者に指名していた秀次を一族もろとも抹殺します。秀秋も、この秀次の事件に巻き込まれるのですが、すでに小早川家に入っており、立場としても豊臣家を離れていたため、殺されることはありませんでした。

さらに転封と復帰に翻弄された秀秋

毛利の両川と謳われた名将小早川隆景が没すると、秀秋は正式に小早川家を継ぎます。このとき秀秋は朝鮮出兵に参戦していましたが、その秀秋に対して秀吉は何度も帰国命令を出しました。しかし朝鮮での戦線の状況もあり、なかなか帰国できません。

ようやく帰国した秀秋に待っていたのは、小早川領である筑前から越前への減封でした。これは秀秋への罰というよりは、長期化する朝鮮での戦争の兵站拠点としての博多および筑前を豊臣家の直轄で管理する意味合いがあったようです。

しかし小早川家としては大幅な減封のため、大量の家臣を解雇せざるを得ませんでした。秀吉としては隆景ならともかく、秀秋には、もはやなんの期待もしていなかったのでしょう。秀秋に大きな瑕疵がなかったことから、この処分には当時から三成の讒言との噂があったようです。

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