織田信長の死後、織田家の主導権を巡って羽柴秀吉と対立した柴田勝家は、1520年ごろに尾張の土豪の子として生まれたと言われています。勝家の出生や出自は記録がなく不明点が多いのですが、信長よりも10歳近く歳上のようです。
柴田勝家の半生
信長の父・織田信秀に仕え、信秀の死後は信長の弟・信行(信勝)に仕えました。勝家は、信秀の跡目を巡って信長と信行は対立しており、信行の重臣として信長に戦い(稲生の戦い)を挑みます。この戦いに信行・勝家は敗れ、一度は赦免されました。
その後、勝家は信行を見限り、信行がふたたび謀反を起こそうとした際には信長に密告しました。信行は信長に殺され、勝家は正式に信長に仕えることになります。
ただ勝家は、すぐに重用されることはありませんでした。
彼が重用されるのは信長が美濃を攻略し、上洛を開始するころからです。勝家は畿内攻略戦の一角を任され、姉川の戦い、石山本願寺戦、長島一向一揆戦、比叡山焼き討ち、朝倉攻め、浅井攻め、長篠の戦いと、信長の主だった戦いにほぼすべて参戦しています。
勝家の最大の長所は武将としての戦闘能力でした。その勇猛さは織田家でも抜きん出ており「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれ、敵に恐れられたと言われています。
勝家は、長篠の戦いを終えた時期に織田軍団の北陸方面司令官となりました。朝倉氏滅亡後、一向一揆らの蜂起もあり、なかなか安定しなかった加賀の平定を任されます。同時に武田信玄亡きあと信長が最も恐れた、上杉謙信の抑えとしての役割も担うようになります。
信長にしてみれば、謙信と武勇で対抗できるのは勝家しかないと考えたのでしょう。実際、勝家は手取川の戦いで謙信と交戦しています。この戦いで勝家は、謙信に敗北しました。しかし翌年に謙信が病で亡くなると、勝家は反転攻勢に出て上杉軍を撃退します。
このころ織田家中では筆頭家老だった佐久間信盛が追放され、このことで勝家は譜代家臣として筆頭家老の地位に。もっとも、重要な畿内の方面軍は明智光秀が務めており、役割としての勝家の地位は、方面軍の一人であることに変わりはなかったようです。
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