このため秀吉は、美濃にも対応しなければならなくなり、兵力を割いて秀吉自身が美濃へ転戦します。勝家はこの機を逃さず羽柴軍に攻め込み、主要な砦を瞬く間に落として戦術的優位に立ちました。
勝家は、秀吉が戻ってくるまでの一時的な勝利でよいと考えていたのですが、攻め手の大将だった盛政はこのまま羽柴方を崩そうと勝家の命を破り、最前線である賤ヶ岳に留まり続けました。そのため美濃から戻った秀吉本軍に攻められ、さらには秀吉の工作を受けていた利家が裏切って撤退したため総崩れに。
秀吉との決戦である賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家に劣勢を盛り返す余力は、もうありませんでした。4月24日、勝家はお市の方とともに居城である北ノ庄城で自刃して果てました。
家康にとっての賤ヶ岳の戦い
本能寺の変の後に家康は、光秀が秀吉に討たれたことを知ると、光秀討伐のために準備した兵をそのまま空白地帯になった甲斐に向けます。ここで家康は北条氏政と激しく争うことになるのですが(天正壬午の乱)、賤ヶ岳の戦いの前年に北条との和睦を成立させて甲斐信濃にその勢力を伸ばしている最中でした。
家康としては正直なところ、もう少し織田家の混乱が続けばよいと思っていたでしょう。それだけに柴田勝家があっさり滅んでしまったことは残念であり、意外なことでもありました。
こうして天下の趨勢が一気に秀吉に傾いたため、家康にとっては新たな危機が訪れます。
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