武田氏が滅んだ1582年3月に、勝家は本格的な上杉攻略を開始していました。上杉は圧倒的カリスマである謙信が亡くなったあと、その跡目を巡って景勝・景虎の養子2人による対立が発生。結果的には景勝が勝利し、後継者の座についたものの家中は混乱していました。勝家はそこを見逃さず、一気に上杉に対する攻勢に出ます。
本能寺の変が起こる6月2日には、上杉方の重要拠点である魚津城を包囲していました。その翌日(3日)には魚津城を陥落させます。勝家が本能寺の変を知ったのは6日でした。勝家は、ただちに全軍を撤退させ居城の北ノ庄城に戻ります。
勝家は情報を集め、大阪で四国攻めの準備をしていた丹羽長秀に連絡を取って光秀討伐の準備にかかります。しかし、ここで勝家は致命的なミスを犯しました。正面の敵・上杉を交戦状態のままにしてしまったのです。
秀吉は反転し京に戻るにあたり、すばやく正面の敵である毛利と和睦しました。それゆえ後方からの攻撃を受けることなく京へ反転できたのです。もちろん、この和睦もリスクをともなう賭けではありましたが、勝家は上杉に何の手も打たなかったため、本能寺の変を知った上杉は当然のように反撃を開始。
このため勝家が京に進軍できる状態になったのは18日で、すでに光秀は秀吉に討たれていました。勝家は、正攻法の戦闘には強かったのですが、こうした機動的な判断に鈍いところがあり、また外交的センスも乏しく、秀吉との大きな差が出てしまいます。
すべてが後手に回った柴田勝家
信長の弔い合戦という最大の利益を秀吉に奪われた勝家は、その後の織田の跡目と運営をめぐる争いでも守勢に回らされます。
それが、いわゆる清洲会議です。
通説では、勝家は信長の三男・織田信孝を跡目に推し、秀吉は織田信忠の嫡子である三法師を推したとありますが、最近の研究では勝家も三法師の擁立には反対せず、議題の中心は信長の遺領をめぐる分配だったようです。
勝家は北近江および長浜城を得ましたが、秀吉は河内、丹波、山城という京に近い要衝をすべて手に入れます。光秀を討ったという秀吉の最大の功績の前に、勝家はなすすべがありませんでした。
ちなみにこの会議で勝家は信長の妹・お市の方と結婚することになるのですが、この件については最近おもしろい説があります。通説には信孝がこの婚姻を勧めたとある一方で、勝家の書状には「秀吉と申し合わせ、主筋の方との結婚の承諾を得た」とあり、どうやら秀吉がこの結婚を勧めた、もしくは主導的な役割を担っていたようです。
もしもこれが本当なら、秀吉としては信長遺領分配での勝家の不満を抑える狙いがあったのかもしれません。
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