「朝鮮出兵」で秀吉が心に抱いていた"真の狙い" なぜ実行しようとした?キリスト教との関係
天正18年(1590年)7月から9月にかけて、徳川家康は奥州(現在の東北地域)で勃発した反乱鎮圧に、豊臣重臣として奔走していた。
一方で、その頃、豊臣秀吉は、さらなる野望を膨らませていた。8月には、諸大名に唐入り(朝鮮出兵)を翌年に行うことを告げたのだ。
10月になると、関東にも、秀吉の唐入りが確実に行われるであろうことが伝わってくる。この年の12月下旬、秀吉は甥の秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は大坂城に入った。これも、朝鮮半島から明国(現在の中国)への侵攻を見据えてのことと思われる。
秀吉にはどんな戦略があったのか
秀吉が唐入りを実行しようとしたのは、誇大妄想で、無茶な行動だと捉えられる側面もあるが、秀吉には秀吉なりの目的があった。
その目的は1つではなく、さまざまあると考えられている。秀吉の戦略を考えるためには、当時の国際情勢にも触れなければならない。
戦国3英傑(信長・秀吉・家康)が活躍していたころ、世界は「大航海時代」の真っ只中だった。15世紀頃より、主にポルトガルとスペインが世界規模の航海を行い、新航路や新大陸を「発見」していったのだ。
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