清洲会議で秀吉の政治力に敗れた勝家は、その劣勢を挽回するために清洲会議での結果に不満を持つ三男・信孝を抱え込み、さらに滝川一益と手を結んで秀吉に対抗します。しかし、ここでも勝家の外交センスの無さが顕わに。
勝家はふたたび自分の背後の敵・上杉を敵対のままにしてしまいます。逆に秀吉はこの状況を利用し、上杉に連携の秋波を送って味方にすることに成功。さらに秀吉は冬のあいだ身動きの取れない北陸の勝家の隙をついて信孝・一益を屈服させ、長浜城主であり勝家の養子である柴田勝豊を懐柔し、長浜城を奪取します。
じつは、この勝豊は養父である勝家と不仲であり、それを見越して秀吉は「勝豊殿に長浜城をお渡ししたい」と清洲会議で申し入れていました。勝豊は柴田家では不遇の身であり、秀吉にすぐになびいてしまいます。
長浜は、勝家にとって京に出るための重要な戦略拠点にもかかわらず簡単に秀吉に奪い取られてしまうという結果に。慌てた勝家は毛利に連携を提案し、秀吉を西から挟み撃ちにしようとしますが、毛利はそもそも本能寺の変で秀吉に味方することを決めており、この勝家の提案にのるわけもなく失敗に終わります。
何よりもこの時点で勝家の不利は誰が見ても明らかで、勝家に味方する畿内の諸将はなく、勝家配下の者にまで、すでに秀吉の手が伸びていた状態でした。
四面楚歌となる柴田勝家
追い詰められた勝家は、秀吉との直接対決で、政治的な劣勢を逆転しようと考えます。1583年3月、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の兵を率いて近江に出陣。
秀吉はこれに対し5万の大軍を率いて対抗します。両軍は睨み合ったまましばらく戦線は膠着しました。ここで一度は秀吉に対し降伏していた信孝が美濃で挙兵。
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