信長、名実ともに天下人へ
1582年3月、織田信長はついに武田勝頼を天目山で自害に追い込み、長年の宿敵だった武田家を滅ぼしました。あくまで徳川の援軍という立場だった長篠の戦いと異なり、形式的とはいえ、朝廷の命を受けて織田が主力として武田を征伐する戦でした。
最大の敵だった武田を滅ぼしたことで、信長は名実ともに天下人へと近づきます。家康は、甲州征伐の功績により信長から駿河を与えられました。信長から領地を与えられたことで、徳川は明確に従属を決定づけられたと言っていいでしょう。これ以降家康は、信長への連絡にも信長の官僚を通すようになります。
信長は武田を滅ぼして以降、明確に天下をどう統治するかの構想に入りました。
信長は織田家中で徹底的な独裁体制を取り、領地は与えても、あくまで信長から「貸し与えられる」形式でしかなく、独自の統制を行うことは許されていません。
その一方で徳川家は独立した組織として認められ、従属したとはいえ織田の諸将とは一線を画しています。これは室町幕府と同じ地方独立分権です。この体制は信長の後を継いだ豊臣政権、そして江戸幕府にも引き継がれていきます。
甲州征伐の功績は信長よりはるかに家康のほうが大きかったと思われます。長篠の戦いで大敗を喫した勝頼は、その後7年に渡り劣勢挽回に努めますが、家康は絶えず勝頼を脅かし、勝頼が致命的な外交ミスを犯した上杉家の家督争い(御館の乱)に乗じて、北条と同盟を結んで東西から武田領を攻めます。
この同盟が武田の衰退を決定的にしました。
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