7年ものあいだ裏切り続けた本多正信
本多正信は、1538年に本多俊正の次男として生まれました。「桶狭間の戦いで膝を負傷し、以降歩行が困難になった」とありますから、家康が織田・今川の人質だった頃から仕えていたと思われます。ただ、当時は側近というほどの存在ではなく、特に目立った逸話や事績もありません。『どうする家康』では、服部半蔵とともに瀬名姫奪還作戦に加わっていましたが、これはドラマの演出で、当時の家康家臣団では目立たない存在だったようです。
正信の名が歴史に刻まれるのは、若き家康にとっての最大の危機と言われる「三河一向一揆」です。家康は領内における一向宗の利権を巡って対立し、それが家臣の反乱につながります。ここに旧今川家臣団や家康に城を奪われた吉良氏なども加わって、大騒乱となりました。一向宗の信者だった正信も一向宗側に加わり、家康を苦しめます。
この乱で、家康は命を落としそうになりながらも鎮圧に成功し、反乱した家臣には帰参を許す寛大さを見せますが、正信は加賀に向かい一向宗として戦い続けます。
こうして徳川家臣団の団結は高まりましたが、正信はそこにはいませんでした。正信が家康の元に戻るのはそれから7年後、姉川の合戦あたりと言われています。
家康による正信への信任が厚くなるのは、信長が本能寺の変で倒れて以降のこと。秀吉傘下に徳川家が組み込まれた頃には、家康の参謀的な立場にまで成り上がっていました。
秀吉没後は、家康の政権奪取のために謀略を巡らせたと言われており、家康からは「友」と呼ばれるほどの信頼関係を築いていました。ただ、この家康の寵愛が、いずれ他の家臣との軋轢を呼ぶことも予測していたようで、後継ぎの本多正純には「3万石以上の加増は受けてはならぬ」と遺言したと言われています。
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