裏切り続けた本多正信が家康の謀臣たりえた裏側 家康に苦悩も、有能な官僚ほど立ち回りは難しい

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話を戻すと、長きにわたり裏切り続けた正信は、家康にとって簡単に許せる人間ではなかったはずです。三河一向一揆を鎮圧した際に、正信が他の家臣と同じように戻ってきたのなら家康はそのまま受け入れたはずですが、正信はそのまま三河を離れ浪人として一向一揆の武将となり転戦してしまいます。つまり家康の恩を二度裏切ったことになるわけです。

普通に考えれば、他の家臣に示しがつかないため正信を許すことはできないでしょう。たとえ重臣である大久保忠世のとりなしがあったとしても、簡単なことではないはずです。これは帰参にあたって武将としてではなく「鷹匠」として召し抱えたという点でも、家康の苦悩が見てとれます。

この背景には、もちろん正信自身の能力が高かったことがありますが、もうひとつの要因として石川数正の存在が挙げられます。数正は家康の若い頃からの腹心であり、重臣の中でも信頼の厚い武将でした。交渉に長けている数正は信長との「清州同盟」でも織田方との交渉役でしたし、家康の妻、築山殿(瀬名姫)を今川家から取り戻す際の交渉役もつとめました。

数正は武骨ものの多い徳川家にあって、貴重な外交官でした。その数正は、正信復帰前あたりから徳川家中で微妙な立場に置かれるようになります。数正が後見役を努めていた家康の長男・信康が切腹を命じられ、それ以降、かつてほどの信頼を家康から得られなくなっていたようなのです。結局、数正は1585年に秀吉の下に出奔してしまいます。正信の台頭は、数正出奔以降に起こるので、家康は数正というピースがいずれなくなってしまうことを予想し、そのバックアップとなる存在として正信を認めたのかもしれません。

関ヶ原で敗れた石田三成の息子を救った

正信には意外な逸話があります。それは関ヶ原の合戦後、石田三成の嫡男である重家の命を救ったというものです。関ヶ原の敗戦後、石田家の居城である佐和山城は東軍に攻められ、城に籠っていた石田一族は皆自害しましたが、長男の重家だけは大坂城に人質として預けられていました。

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