重家は関ヶ原での敗戦の報せが大坂城に届くと城を脱出し、京都妙心寺に入って剃髪し、仏門に入ります。妙心寺の住職伯蒲は、すぐに京都所司代奥平信昌を通じて助命嘆願を行いました。
戦国の習わしであれば、重家は当然死罪です。
しかし家康は、ここで逡巡しました。
実は重家は、三成が失脚して佐和山に隠居された時に大坂城に出仕しており、この際に家康とは面識があって、家康は重家をかわいがっていたという話があります。
家康は重家を救いたかったのでしょう、なかなか処分を決められずにいました。しかし何と言っても重家は西軍総大将の嫡男で、助けるにもそれなりの理由が必要です。苦慮する家康の心中を察して正信は、とんでもないことを言い出します。
「重家の父、三成は徳川家に大功を立てたので、それに免じて重家の命を救うのは当然のことです」
驚いた家康は尋ねます。
「三成はなんの大功を立てたのか?」
「三成は西国の反徳川勢を集結させ乱を起こしました。これにより日本全国が徳川家に服することになったのです。これが大功と言わずして、何を大功と言いましょうか」
「なるほど。正信の言うとおりである」
家康は重家の助命を決定し、重家は僧侶として生涯を終えました。この逸話が本当かどうかはわかりませんが、正信には家康の意思決定に理屈をつけ、その決断に自信を持たせる能力があったことがわかります。現代でいえばビジネスコーチのような能力でしょう。
有能な官僚の立ち回りの難しさ
この三成の子・重家の一件は、正信自身が三成に対して親近感があったことも影響しているのかもしれません。三成は、豊臣家の中では正信のような官僚の地位にありました。彼は有能であったがゆえ、加藤清正ら前線で戦う武将たちからひどく嫌われていました。
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