現代風にいえば「営業本部の部長」と本社の「管理部門の部長」との対立のようなものです。豊臣家は、この三成ら官僚と清正ら前線で戦う武将の軋轢を家康に利用され、結局は政権を徳川に奪われます。この分断作戦を練ったのが正信でした。
しかし三成に起こったことは、同じ官僚的な立場にあった正信にも当てはまります。ただ、それは正信存命時には起きず、正信のあとを継いだ正純の代に勃発します。正純を嫌ったのは、ほかでもない二代将軍徳川秀忠でした。
特筆すべき正信の鋭い危機察知能力
正信はこのことを事前に予測し、正純に「3万石以上の加増は断るように」と遺言していましたが、正純は宇都宮藩15万石を与えられます。正純本人は固辞したともありますが、結局この加増がきっかけとなり、正純は秀忠暗殺を目論んだ罪(宇都宮城釣天井事件)によって所領を没収されてしまいます。この事件の真実はわかりませんが、背景には将軍秀忠とその側近たちが、家康時代の統治体制から自分たちの統治体制を確立しようとしたことがあるのかもしれません。
かくして本多家は、徳川家臣団の中から消えてしまいます。正信が家康に謀反し三河を出た時と同じように、息子正純は謀反の罪により排斥されたのは皮肉なことです。
組織において、管理部門というものは有能な集団で構成されるものですが、一方で現場に比べると個人の能力に依存する部分が多く、それゆえ権限の集中が起こり、そしてその弊害も大きいといえます。家康は管理部門を大きくせず現場の権限を大きくし、過度な中央集権の形を取りませんでした。江戸幕府は、秀忠以降も官僚のサイズは大きくせずに、地方分権と中央のバランスを取りながら運営していくことになります。
もしかすると、この運営のありかたも正信が家康に進言したものかもしれません。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら