氏真の人質交換における判断は正しかった?
桶狭間で当主・義元を討ち取られた今川家は、松平元康の独立行動に端を発した反乱の動きが三河全体に広がったことで、さらに動揺します。『どうする家康』でも描かれていましたが、今川はこの動きに対抗するために人質の処刑を行いました。斬首や磔(はりつけ)ではなく、串刺しという凄惨なものだったようです。実はこのような処刑は、当時としては一般的な軍事行動でした。むしろ、明らかに今川離反の動きを見せた元康の妻子が処刑されなかったことのほうが異常でしょう。
ここに氏真(うじざね)の苦悩が見て取れます。
その理由として、まず元康の妻である瀬名が今川家の重臣・関口氏の娘だったことが挙げられます。戦国時代の通常の流れでは、この場合、瀬名は助けて嫡男の竹千代のみ処刑されるというのが一般的でした。ケースは少し違いますが、織田信長は自分を裏切った浅井長政の妻子に関して、長政の妻であった自身の妹・お市の方とその娘の茶々らは助命し、嫡男の万福丸は串刺しの刑にしています。しかし氏真は結局、竹千代の処刑すら行わずにいました。
このあたりの氏真の心情を記したものは見つかっていないため真相はわかりませんが、氏真は元康と取引するための材料として、元康の妻子の処刑を引き延ばしたのではないでしょうか。
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