「忍術使い」ではなかった服部半蔵
服部半蔵は「忍者」として暗躍していたような印象を抱かれがちですが、実際の働きはやや異なります。
家康に仕えた服部半蔵こと服部正成は、服部家で半蔵を名乗る2代目で、徳川十六神将のひとりに数えられる“鬼の半蔵”と呼ばれた勇猛な武将でした。ただ、家康から伊賀や甲賀の忍びを預けられ、その指揮官であったことは事実のようなので、その意味では「忍者」の棟梁ではあります。しかし彼自身が忍術を使っていたわけではありません。
正成(半蔵)が歴史上の記録に登場するのは、家康が鵜殿長照を攻めた上之郷城の戦いです。「16歳の初陣ながら敵将を討ち取り、家康から盃と槍を賜った」とあり、この戦いでは甲賀者が投入されて鵜殿長照の息子2人の確保に成功します。『どうする家康』でもこの場面は描かれていましたが、実際に正成が関与したかどうかは定かではありません。
この戦いを経て正成は、家康の親衛隊(馬廻り役)に属します。
家康の最初のピンチである「三河一向一揆」の際も、正成は家康に従って戦い、その後も武功を上げ続けました。武田信玄に完膚なきまで叩き潰された「三方ヶ原の戦い」でも抜群の武功を上げ、この時の勲功により伊賀同心150人を預けられることになります。これが「伊賀の棟梁」と呼ばれる所以です。ただ、これはあくまでも預けられただけ。一時的に指揮官として任命されただけであって、家臣になったわけではありません。
正成は、徳川家最大の悲劇となった嫡男・徳川信康の死にも立ち会っています。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら