信康の切腹にあたり、本来、介錯をする役目だった渋川四郎右衛門が、
「三代恩ある主君の首は討てぬ」
と出奔したため正成にその役目が回ってきました。しかし、いざとなると正成は信康の首を討てず泣いて突っ伏したため、代わりに天方通綱が介錯をしました。
家康の前に出て、
「自分の首を刎ねてほしい」
と懇願する正成に家康は
「“鬼の半蔵”と呼ばれたそちでも、主の子は斬れぬか」
と、落涙したと言われています。
これはあくまで逸話で史実かどうかは不明ですが、正成が家康の忠臣であったことは確かでしょう。
絶体絶命の危機で体を張り家康を救う
家康の側近として重用されてきた正成ですが、ここで大きな問題に直面します。武田勝頼との戦いの中で、織田方の武将と正成の部隊が衝突を起こしました。双方に死傷者を出したこの騒動で、家康は織田方の心情をおもんぱかり、正成を処罰したと見せかけて偽の首を差し出し、当人を逃がします。家康にとっては、正成はどうしても失いたくない人材だったのでしょう。この騒動のあと正成は、何処かに姿をくらませました。
彼が再び家康の前に現れるのは、かの有名な「伊賀越え」のときです。
本能寺で織田信長が討たれたとき堺見物に訪れていた家康は、明智光秀の追手により絶体絶命のピンチに陥ります。これを救ったのが行方不明になっていた正成でした。
正成は、三河までの逃走経路として選んだ伊賀、甲賀の地を説得して回り、家康の決死の逃走を助けます。しかし途中で落ち武者狩りにあい、正成は家康を逃がすために瀕死の重傷を負いました。この正成の活躍なくして家康は、無事に三河に戻ることはできなかったでしょう。その後も正成は、家康と共に転戦して数々の武功を上げ、小田原の陣が終わる頃には伊賀同心200人を預けられ8000石の身分となります。そして、1597年に病没しました。享年55歳でした。
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