この燻っていた火種は、正成が亡くなって3代目服部半蔵を継いだ正就の代に火を噴きました。麹町の服部家の屋敷が火事で焼失した際に、その再普請を伊賀同心に命じたことで、伊賀同心は激しく反発します。この問題は幕府にも取り上げられました。
一度は正就の意見が認められたものの、係争中に正就は禁止されていた夜間の外出を咎められて改易となり、伊賀同心の指揮権も失います。これは解釈でしかありませんが、幕府としては父の代から続いていた服部家と伊賀同心の問題を解決すべく、服部家に厳しい処置を強いたのかもしれません。
正就は舅の松平定勝の預かりとなります。家督は弟の正重が継いで4代目服部半蔵を名乗りますが、伊賀同心の指揮権を戻されることはありませんでした。
ふたりの半蔵がたどり着いた場所
“鬼の半蔵”正成と“槍の半蔵”守綱は、ともに家康の親衛隊として切磋琢磨します。その勇猛さから考えると、チームを率いるリーダーというより一匹狼の凄腕営業マンのような存在だったのでしょう。しかし戦乱が収束し戦という働きの場が減ってくると、両者に求められたのはマネジメント能力でした。
この点においては武功、つまり営業成績でやや正成には及ばなかった守綱のほうが高い評価を受けたようです。守綱はのちに徳川御三家となる尾張藩主・徳川義直の後見家老の務めを果たし、正成より24年長く生きて79歳で没しました。
一方、改易された服部家は紆余曲折あり、最終的には桑名藩の家老として明治維新まで続いていきます。
家康を支えたふたりの半蔵は、もともと領地も独立した組織も有していた石川数正や本多忠勝、酒井忠次らとは違い、まさに自らの「腕」のみでのし上がっていきました。そして個人としての力を存分に発揮したのちに評価を分けたのは、マネジメント力だったのです。
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