徳川家には、もうひとりの半蔵がいます。それが“槍の半蔵”こと渡辺半蔵守綱です。守綱も徳川十六神将のひとりに数えられており、しかもふたりは同じ1542年生まれ。初陣も同じ16歳です。
正成がいきなり大きな武功を上げて注目されたのに対して、守綱は20歳のときに、負け戦ではあったものの今川家臣板倉重定との戦いで奮戦したことで“槍の半蔵”の異名を受けました。そして正成と同じく家康の親衛隊となります。
しかし一向宗の熱心な信徒であった守綱は、家康に忠誠を誓い続けた正成と違い「三河一向一揆の戦い」で家康から離反しました。守綱は家康や正成を相手に戦いますが、一揆が鎮圧されると家康に許され帰参します。
その後、守綱は正成とともに武功を上げ続けます。
浅井(あざい)・朝倉の連合軍と戦った「姉川の戦い」では旗本の一番槍をあげ、武田勝頼との決戦となった「長篠の戦い」では、武田信玄の軍師として名高い山本勘助の息子である山本菅助を討ち取ります。こうして徳川家の関東移封の際には足軽100人の組頭となり4000石を与えられました。このとき正成は伊賀同心200人を抱え6000石を与えられていたので、出世争いでは、やや後れを取った形です。これは正成が、家康の節目節目で功績を上げていたことが大きいのではないかと思われます。
「伊賀同心」との対立が続いた服部家
服部半蔵正成が伊賀者の指揮権を持っていたことは事実でしたが、その関係は複雑なものでした。「伊賀越え」の際に、伊賀の地侍は正成の説得で家康の味方についたものの、これはのちの徳川家への仕官を含めた説得だったようです。家康はその願いを聞き入れ、伊賀者を伊賀同心として徳川家に組み込みます。そして説得工作を行った正成を、その指揮官に任命しました。
服部家は正成の父・保長の代まで伊賀に住んでおり同郷のよしみもあるため、家康にとっては、この人事は自然なものでした。しかし伊賀の人たちにとっては、そうではありません。保長が若いころに伊賀を出ていたことに加え、そもそも伊賀における服部家の家格が低かったこともあり、この人事に反発します。それでも正成の代では、正成自身が勇猛な武将として徳川家で高い評価を得ていたため、あまり表面化しなかったようです。
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