明智光秀が信長謀殺の「本能寺の変」に至る裏事情 信長の配下は出払い家康も討てる千載一遇の好機

✎ 1〜 ✎ 29 ✎ 30 ✎ 31 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

信長は、この状況を見定めてから甲州征伐を決めたのです。

信長も家康の働きを評価していたのでしょう。駿河を家康に与えることを決定。家康はその御礼として浜松で信長を接待しました。この接待への返礼という形で、信長は家康と重臣たちを安土に招いて接待を行うことに。接待は「同盟者」に対してするものであり、信長による最大の配慮だったと思われます。

しかし、このふたりのあいだには、甲州征伐の3年前に信康・築山殿事件がありました。武田に内通した罪により、家康の嫡男・信康と妻・築山殿が信長の命により死を強要されたというものです。家康にとっては痛恨の事件であり、信長との関係にも少なからず影響したと思われるものでした。

じつは、この後に起こる本能寺の変で興味深い証言があります。

もしも信長にその気があれば、徳川家は崩壊していた

明智光秀の軍に従軍していた本城惣右衛門という人物が書き残した書物に「家康さまを討ち取るものとばかり思っていた」とあり、同様にルイスフロイスの『日本史』にも「信長の命により家康を討ち取る計画ではないかと疑惑した」との記述が。少なくとも、当時の人たちには信長が家康を謀殺する可能性を考える人がいたということです。

この安土の接待には家康をはじめ、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ら徳川四天王を含む重臣が勢揃いしており、もしも信長にその気があれば、徳川家の主要人物は消され徳川家は崩壊したでしょう。

家康側はこの可能性についてはどう考えたのでしょうか。

次ページ家康謀殺の「空気」が存在
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事