本能寺の変と家康の危機
1582年6月2日、明智光秀は京の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害に追い込みました。妙覚寺に宿泊していた信長の後継者である嫡男・信忠は、二条城に移ったものの明智軍の攻撃を受け父に続き自害。光秀は、最大の目的である信長と信忠の抹殺に成功しました。次の狙いは堺に滞在している徳川家康と、その重臣たちです。
光秀の反逆は、織田の重臣たちが全員京を離れ交戦中のため、少なくともすぐには反撃されないとみたことから始まります。徳川家だけは大きな戦を抱えていませんでしたが、家康一行が安土で接待を受け、その後、堺見物をして京で信長と合流する予定ということを光秀は知っていました。
こうして信長のまわりには、光秀以外の兵力が存在しない空白の状況が生まれたのです。これが光秀に反逆を決意させた最大の要因と思われます。もしも家康と重臣たちが国元にいたら、近場に徳川という一大軍事勢力が控えていることになるわけで、光秀は本能寺の変を起こさなかったでしょう。
光秀は、何も知らず京に入ってくる家康一行を待ち受けて殺してしまうつもりだったはずです。織田・徳川のトップがいなくなれば天下は大混乱となり、光秀のクーデターは大成功となるはずでした。
実際は、信じられない速度で羽柴秀吉が中国戦線から引き返して光秀を倒すのですが、それはさすがの光秀も予想しきれなかったのでしょう。実際、もしも家康がここで光秀に討ち取られていたら、光秀につく大名はもっと多かったのではないでしょうか。
そうすると秀吉の行軍に大きな支障が生まれ、秀吉の天下は来なかったかもしれません。
光秀にとっては、家康を討ち取ることもまた、絶対的な目標だったのです。そして、それはかなり高い確度で成功するはずでした。
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