光秀の最大の誤算は、信長の首を得られなかったことです。
信長は己の首を誰にも渡さないために、自分の遺骸を焼き払わせました。
光秀は必死に信長の首を探します。
天下をとるには信長・信忠親子の首を晒し、自分の正当性を訴えることが必要だったからです。
それに信長の首がないと、信長を殺した証拠がないことになります。『どうする家康』でも今川義元や武田勝頼の首が印象的に描かれましたが、当時の大将首は非常に重要なものでした。実際、光秀は信長を取り逃がした不安に駆られたようで、かなり長く本能寺にとどまり、信忠を妙覚寺から二条城に移動させる時間的猶予を与えてしまいます。
その結果、信忠も自分の遺骸を焼き払わせたため、信忠の首まで得られずじまいに。このわずかな時間のロスが家康を取り逃がすことにつながるのです。このとき家康は堺に宿泊していましたが、光秀の謀叛の第一報を受けたのは、家康と顔見知りだった京の豪商・茶屋四郎次郎でした。
信長を討たれ大いに取り乱した家康
茶屋は本能寺の変が生じ、信長が死んだことを伝えます。家康はこの報に接して激しく取り乱し、京にある松平ゆかりの知恩院で
「信長を追って腹を切る」
と言います。
この逸話は家康の動揺を示すものですが、私が思うに家康は瞬時に自分を殺すところまでが光秀のプランであることを見抜き、光秀の能力があれば万に1つもミスをすることはないと思ったのではないでしょうか。
信長が光秀の反逆を知ったときに、
「是非もなし」
と自分の死を覚悟したという逸話が残っていますが、それと同じ心境だったと思われます。実際には、このころ光秀は信長親子の首を探しており、ある意味、信長の首が家康を助ける一因になったのです。
死を覚悟した家康を本多忠勝ら重臣が諫め、家康自身も、なんとかこの窮地を脱して領国に戻る決意を固めます。とはいえ敵のまっただなか。兵はまったくおらず、まさに絶体絶命でした。
ここからのちに「神君伊賀越え」と呼ばれる決死の逃避行が始まります。
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