設楽原の戦いで壊滅的な敗北を喫した武田勝頼でしたが、武田氏滅亡まで、じつに7年の年月がかかりました。
信長は一気に武田領に侵攻したわけではなかったのです。
長篠(設楽原)の戦い以降の勝頼
武田勢に追い打ちをかけたのは徳川家康でした。
家康は、まず勝頼に攻め込まれた遠江と三河領の奪還、さらにはその地域から武田勢力の一掃を試みます。勝頼もこれに反攻したものの、三河領に関しては、ほぼ撤退を余儀なくされました。
この武田の動きを受けて信長は、嫡子・信忠に命じて長らく武田に奪われていた東美濃の要衝である岩村城を奪還し、城主・秋山虎繁を逆さはりつけという残虐な処刑で見せしめを行います。勝頼が岩村城を見捨てたことを印象づける、一種のプロパガンダ行為でした。
このあたりから勝頼は、遠江における徳川家康との攻防に主眼を置き始めます。その重要な戦略拠点が高天神城でした。家康は高天神城攻略のために二俣城を落とし、高天神城を孤立させることに成功します。勝頼はたびたび高天神城救援のために出陣し、家康と交戦しました。
設楽原で惨敗したとはいえ、いまだ遠征して徳川と対峙できるだけの軍事力を持っていたわけです。そして、そこには、さらに外交上の成功もありました。
信長が一気に攻めきれなかった背景には、暗躍する足利義昭の存在がありました。義昭は、信長に対抗する反織田包囲網の再構築を画策していたのです。そこで、信玄亡きあと最強の武将ともいえる上杉謙信を軸に、武田、北条、毛利の同盟を考えます。
これは弱体化している武田にとっても渡りに船の案でした。
父・信玄とは何度も戦ったことのある謙信ですが、いまや信長が恐れるのは謙信だけとも言ってよく、勝頼からすれば謙信の後ろ盾があれば信長を抑えられるため、徳川戦に集中できます。ただ上杉と北条の関係がよくはなく、謙信は勝頼との和睦には賛成したものの北条との和睦には応じませんでした。これがのちに大きく響くことになります。
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