勝頼は、さらに毛利とも和睦をするなど一定の外交的成果をあげ、目論見通り信長の脅威を防ぐことに成功しました。しかし、これは義昭の力ありきで、勝頼の外交手腕によるものではありません。このとき勝頼は、最も大事にしなければならない北条氏へのケアを怠りました。
もし北条氏が敵に回れば、武田は徳川・北条の両面攻撃にさらされ一気に苦境に陥ることになるのですが、勝頼は謙信に気を遣うあまり北条氏をないがしろにします。
北条にとって上杉は敵です。その敵に対して勝手に和睦を進めた勝頼に当然、いい気はしていませんでした。
そして決定的な事件が起こります。
大局が見えない勝頼の「おせっかい」
勝頼や義昭が頼りにした謙信が病死し、その後継者を巡って内紛が起きたのです。謙信は実子がいなかったため、養子ふたりがその跡目を巡って対立します。ひとりは、謙信の甥である景勝、もうひとりは北条氏政の弟で上杉に養子に出されていた景虎です。
勝頼は両者の調停に入ります。
明確な態度は示しませんでしたが、景勝が有利になるように動いたようです。
結果的に、この内紛は「御館の乱」と呼ばれ、景勝が勝利。景虎は自害に追い込まれます。そもそも勝頼は北条氏と同盟を結んでいるのですから、当然、景虎側につかねばならぬところを、余計な調停をしたばかりに北条氏の激怒を買いました。景虎の自害の直接的な原因ではなかったにせよ、勝頼が同盟関係を無視した行動をとったと思われても仕方のないことでした。
御館の乱は1579年の3月の出来事ですが、同年9月には北条氏は正式に武田との同盟を解消し、領地の隣接する駿河、伊豆、上野方面で戦闘状態に突入します。この機を家康が逃すはずがありません。家康は北条氏政と同盟を結び、共闘して武田領を攻め始めます。武田にとって最悪のシナリオとなりました。
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