勝頼は、徳川と北条の両面から攻撃にさらされます。
北条というカードを捨ててまで手に入れた上杉との同盟でしたが、肝心の景勝は御舘の乱の処理でそれどころではなく、まったく勝頼の助けになりません。
どういうつもりで勝頼が上杉の後継者争いに手を突っ込んだのかは謎ですが、その代償はあまりにも大きいものでした。勝頼は徳川・北条の両面戦線での戦いに翻弄されます。つねに自ら出撃し、徳川・北条軍を撃退することで武将としての有能さは見せますが、戦に明け暮れるうちに人心が離れ始めます。
名門である武田氏が朝敵の汚名を着せられた瞬間
このころになって勝頼は、ついに宿敵・信長との和睦を目指します。もしも成功すれば、事実上織田に従属している徳川を抑えられると考えたのでしょう。これが勝頼に、さらなる判断ミスを起こさせます。信長を刺激することを恐れ、孤立し徳川に攻められていた高天神城に援軍を送らず見殺しにしてしまったのです。
これによって勝頼の信用が大きく失墜し、家康は勝頼が味方を見殺しにしたことを大きく喧伝。信長もこれに呼応し、武田の家臣団の切り崩しにかかります。このあいだも勝頼は北条氏と戦い、北条水軍を打ち破るなど戦闘における強さは見せるものの、もはや勢いはありませんでした。
1581年12月に、勝頼は側近と協議し信長との和睦に望みをかけます。武田家に人質として残されていた織田信房を織田家に返還し、和睦の交渉を行いました。しかし信長はすでに勝頼を見切っており、朝廷に働きかけて将軍・義昭を飛び越え、武田氏討伐の勅命を手に入れたのです。
これによって信長は、武田氏討伐の大義名分を得ます。鎌倉時代からの名門である武田氏が朝敵の汚名を着せられた瞬間です。そして信長は正式に、翌年1582年に武田氏討伐を家臣に通達しました。
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