松平信康は、徳川家康の嫡男として正室・築山殿(瀬名)とのあいだに生まれます。
築山殿は今川義元の姪であり、当時、家康(元康)は今川の配下にありました。ところが信康(竹千代)が3歳のころに桶狭間の戦いがあり、尾張に侵攻していた今川義元が織田信長に討たれるという大事件が起こります。さらに、この機に乗じて信康の父である家康は、今川からの独立を目論見ました。
この事態に、義元の後を継いだ今川氏真は激怒します。信康と母の築山殿、そして妹の亀姫は駿河にいたため命の危険に晒されました。当時、裏切りありと見なされた武将の妻子は、見せしめのために串刺しなどの残虐な処刑を行われるのが常。しかし氏真が、家康に捕らわれた重臣・鵜殿長照のふたりの息子との人質交換に応じたため、信康たちは無事に岡崎の家康のもとに送られました。
ただし築山殿の両親は、家康の裏切りを責められ自害させられてしまいます。
その後、家康は織田信長との同盟に踏み切り、その証として信康と信長の娘・五徳の婚姻が結ばれました。信康・五徳ともに9歳。このころ遠江まで勢力をのばしていた家康は浜松城を築き、自身はそちらに移り岡崎城を信康に譲ります。
信長から「信」の一字をもらい信康に
それにともない信康は元服し、信長から「信」の一字をもらい松平信康と名乗ります。また母である築山殿は、家康とは行動をともにせず岡崎に残ります。
信康は15歳で初陣を飾って手柄をあげました。そして宿敵・武田勝頼との対決、長篠の戦い(設楽原の合戦)では、徳川軍の一手の大将として活躍し、その勇猛さを讃えられたと言われています。武将としての信康は、有能だったと言えるでしょう。しかし、この長篠の戦いのあとから信康の人生は暗転します。
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