ただし明確に家康と信康の不仲を記したものはなく、あくまでも推測の域を出ません。しかし後年、家康は6男の松平忠輝に「顔が恐ろしく三郎(信康)に似ている」と言って、この忠輝を毛嫌いしたという記録が残っています。
忠輝は、剣術の達人として知られ武勇に優れていましたが同時に気性が荒く、自分を抑えられない一面がありました。この点も信康とよく似ており、家康は自分の臨終の際にも忠輝のみは立ち会いを許さないという徹底した嫌いっぷりでありました。
家康にとっての信康は、恐れを抱くような存在だったのかもしれません。
一方で、関ケ原の戦いの折には「信康がいれば自分はこのような苦労しなくてもよかったかもしれない」と呟いたともされ(真偽のほどは不明)、信康に複雑な想いを抱いていたようです。
3男・秀忠は後継者として認めた
信康の自刃の理由に今のところ明確な答えはありませんが、江戸期に入って嫡男を死に追いやったという事実を、ある程度肯定するために五徳の訴状や、築山殿の不倫や武田との内通などが創作されたのかもしれません。
家康はこの後、3男の秀忠を手元で育てながら後継者にします。そして、自らは正室を迎えることはしませんでした。私は、それが非業の死を遂げた信康と築山殿に対する、家康のせめてもの贖罪のような気がします。
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