戦国時代は親子でも激しく争うのが常です。さらに最近の研究では、信康のいる岡崎家臣団と家康のいる浜松家臣団のあいだに亀裂が生じていたということもわかりました。この構図は、家康が恐れ尊敬した武田信玄とその嫡男・義信とのあいだに起こった出来事とよく似ています。
信玄は今川侵攻を巡り、正室との子であり嫡男だった義信と激しく対立しました。義信は武勇に優れ、その後見人には武田家の重臣・飯富虎昌が。結果的に信玄は自分の方針に従わない義信と飯富虎昌を危険視し、死に追いやります。
家康は、自分に従わない信康、そして浜松家臣団と岡崎家臣団の軋轢を重く見て、信玄と同様に非情な判断を下したのかもしれません。そして信康の母である築山殿には、信康の死で取り乱すことを懸念してと、信康が自分に逆らうようになった一因は彼女にあるとして、その責任を取らせた可能性があります。
そもそも家康は我が子に対して情が薄いところがありました。
幼少期に人質として出された家康の特殊性
自身も6歳から人質暮らしで父と離れ、織田の人質となった際には父に見捨てられます。そういう境遇ゆえ子への接し方がわからなかったのかもしれません。信康とは9歳のころから浜松と岡崎で離れて暮らしていたので、親子としてのコミュニケーションも十分に取れていなかったのでしょう。
さらに母親の築山殿には岡崎城に住まわせないなど冷たい仕打ちを行っており、(築山殿が岡崎城に入ったのは家康が浜松城に移ってから)そのことを信康が快く思っていなかったことも想像できます。このころの家康は信康だけでなく、お万の方とのあいだに生まれた次男の秀康も嫌い、面会すらせず認知もしませんでした。
秀康を認知させたのは信康でした。
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