長篠の戦いから4年後の1579年。信康の正室である五徳は、父・信長に12カ条からなる訴状を送ります。そこには信康の日常的な振る舞いについてだけでなく、義母である築山殿が「滅敬」という医師と不倫関係にあり、その医師を通じて武田に内通しており、そのことは信康も承知しているという重大なものも含まれていました。
ことの真偽を確かめるために信長は家康に使者を送り、驚いた家康は重臣である酒井忠次を信長の元に派遣し申し開きを試みます。しかし、ここでの尋問に酒井忠次は明快な否定ができなかったため、家康は信長に信康と築山殿の処分を求められることに。この処分とはすなわち、ふたりの命を奪うことを意味しました。
家康は苦悩したあげく、まず信康を岡崎城から堀江城に移します。この時点で信康は岡崎城主の地位を追われたことになりました。このあいだに家康は、なんとか信康の命を救うべく時間稼ぎをするために堀江城から二俣城に、さらにその身柄を移します。
しかし信長はこれを許さず、処分を急ぐよう家康に要請。この圧に抗しきれず、ついに信康に切腹を命じました。同時に築山殿を岡崎城外に連れ出して殺害……というのが通説での信康自刃までの流れです。
要するに信長が娘の讒言を受け入れ、無理やり家康に妻子を殺すように命じたというもので、信長の冷酷さを表すエピソードとして捉えられています。
本当に信長が命じたのか?
ことの発端となった五徳の訴状ですが、じつはその存在は確認されていません。内容は江戸時代のもので創作の可能性が高いでしょう。ただ、信康と五徳の関係が険悪だったのは事実のようで、それは「信長公記」や「家忠日記」「安土日記」など複数の書物に残されており、ふたりを心配した信長が鷹狩りを理由に何度か岡崎を訪ねたという記録も残っています。信長は意外に細やかな気配りをする人で、秀吉とその妻の寧々が夫婦喧嘩をした際には寧々に手紙を送って仲裁をしたこともあるほどです。
そもそも、この時期に信長が徳川家に圧力をかける明確な理由はありません。
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