「本能寺の変」信長の首探しで決す明智光秀の末路 天下取りの証拠を得られず人心を掴めなかった知将

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本能寺で倒れたとされる信長の有名なスローガンに「天下布武」があります。

この意味は意外に知られていないのではないかと思いますが、天下布武は1567年、信長が斎藤龍興を敗走させ美濃を平定したあたりから使われ始めた言葉です。朱印にも採用されたわけですが、ここで指す「天下」は日本全国ではありません。畿内です。

このころ京は、将軍・足利義輝が三好三人衆らの反乱により殺されるなど、混乱を極めていました。信長の指す「天下」とは、京をはじめとする畿内の平穏を取り戻し、室町幕府を再興するという意志のあらわれでした。

信長は1565年には足利義昭の要請に応じて上洛を試みましたが、このときは斎藤龍興が停戦条約を破ったため諦めています。その龍興を排除し、美濃を手に入れ、上洛への障害を取り除いたことで改めて世間に「上洛して足利義昭を迎え、室町幕府を再興する」という意思を「天下布武」という言葉に込めたのです。

信長は足利義昭を立てるも裏切られる

だから初期の信長の構想はあくまでも足利義昭を中心にした幕府運営であり、その中心に自分が座るというものでした。ところが肝心の義昭が信長のやり方に反発し、やがて離れていったことで構想が大きく変わってしまいます。

変わるというよりは、なし崩し的に対応せざるをえなくなったのです。

義昭は、信長を排除するために次々と信長包囲網を敷きます。武田、上杉、毛利、石山本願寺など全国の有力な大名を取り込んでいきました。その結果、信長はそれらの勢力と戦わなくてはいけなくなり、結果的に戦線が日本全国に広がってしまったのです。

さらに信長は武田攻略にあたって、その大義名分を整えなければなりませんでした。

それまでは、大義名分は武家の頭領である将軍から下されるものでしたが、義昭と対立していた信長は、その手段が使えず朝廷からもらうことを考えつきます。ここに幕府を頂点とした武家政権の構造が崩壊します。

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