このあたりの機微は2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」では上手に描かれていました。ただ実際のところは、信長が家康の謀殺を考えた可能性は低いのではないでしょうか。信長の天下統一構想は中国の覇者・毛利、四国の長宗我部に向いており、その後は九州に向いたと思われます。
東を抑える軍事力としての徳川は依然重要であり、天下統一を目論む信長に徳川を攻める意味はありませんでした。また信長は謀殺という手段を用いることはほとんどなく、まして長く同盟を結んでいた家康を謀殺すれば、家臣を含め人心が離れてもおかしくないでしょう。信長がそのような愚策を行うことは考えにくい。しかし当時、信長が家康を謀殺するかもしれないという「空気」があったことは注目に値します。
よく知られる光秀と信長の関係性は真実だった?
安土における家康の饗応役に任命されたのは明智光秀でした。
当時の光秀は織田家中の筆頭ともいえる地位におり、信長が光秀にこの役目を命じたのは、それほど家康を重く見ていた証拠ともいえます。
しかし光秀は、この饗応役をすぐに免じられ、備中で毛利と交戦中だった羽柴秀吉の援軍に向かうよう命じられました。この罷免にあたり、光秀が信長から暴力を受けて面目を失したという逸話が残っています。
光秀が本能寺の変を起こした原因として、一般に「怨恨説」が知られています。光秀がすぐ秀吉に敗れたことで、本能寺の変に関する当時の記録については関係者が処分した形跡があり、その真実ははっきりしていません。
それゆえ本能寺の変には、さまざまな説があるのです。
光秀が信長に怨恨を抱いた逸話は、ほかにも武田を滅ぼした後の宴席にて「我らの苦労が実りました」と発言し「おまえがなんの苦労をしたのか」と信長に罵られ殴られた、丹波の八上城攻めに当たって人質として母親を入れたところ、信長が降伏してきた敵将を殺したため母親がはりつけにされた、重臣の斎藤利三の引き抜きを巡って信長の命令にそむいた、秀吉の援軍に出されるに当たり領地の丹波、坂本を召し上げられた、などがあります。
いずれも確証がないため、多くは光秀が謀反を起こした理由をドラマチックにするための後世に紡がれた創作なのでしょう。この反乱がもう少し長期にわたって明智政権が樹立されていれば違った見方が生まれたでしょうが、短期決着したことで謀反の意図が見えにくくなったように感じます。
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