「朝日姫」夫と離縁させられ家康に嫁ぐ苛烈な晩年 戦の駒となり心を病んでいった天下人・秀吉の妹

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家康の上洛によって朝日姫の人質としての役目は終わりましたが、彼女はそのまま家康の正室として駿河に居を構え暮らしました。そのことから駿河御前と呼ばれます。

家康が彼女のもとをどれくらい訪れたのかは記録として残っていません。ただ、その扱いは丁重であったようです。

輿入れしてから2年後の1588年に母、大政所の見舞いに上洛するまで彼女は静かに駿河で暮らしていました。しかし、体調は思わしくなかったようで、翌年に亡くなりました。大政所の見舞いで上洛したまま、駿河に戻ることなく亡くなったという説もあれば、駿河にいったん戻って、そのまま亡くなったという説もあります。

死因は「気うつ」と言われています。

気うつとは、一種の精神疾患であり、強い不安から起こるものです。老齢に入ってからの静かな暮らしを奪われ、場違いな武士の世界に組み込まれ、長年連れ添った夫を奪われ、そして天下のためと言われ見知らぬ土地と敵対心の強い集団のもとに送られた朝日姫の心は、すでに限界だったのでしょう。

1590年2月18日、朝日姫は47歳の生涯を終えます。

朝日姫の訃報を受けた家康の行動は?

朝日姫の訃報に接した家康は、このとき小田原征伐の準備の最中でしたが、彼女を東福寺に葬り、のちに朝日姫のために南明院を建立しました。この寺は、徳川将軍家の菩提寺になっており、彼女の肖像画もここに所蔵されています。

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また、家康は駿府にも彼女の墓を建立しました。

家康は彼女をきちんと徳川家の一員として、自分の正室として認めたということです。

実子や側室に時に冷たい仕打ちをした家康ですが、家康なりに朝日姫の苦悩やそのつらさを理解していたのかもしれません。

家康と朝日姫がどんな言葉を交わしたのかは、どこにも手がかりはありません。しかし彼女への思いやりとも解釈できる家康のいくつかの行動から、朝日姫の晩年に突如訪れた過酷な運命に、少しの安らぎを見出せるような気がします。

眞邊 明人 脚本家、演出家

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まなべ あきひと / Akihito Manabe

1968年生まれ。同志社大学文学部卒。大日本印刷、吉本興業を経て独立。独自のコミュニケーションスキルを開発・体系化し、政治家のスピーチ指導や、一部上場企業を中心に年間100本近くのビジネス研修、組織改革プロジェクトに携わる。研修でのビジネスケーススタディを歴史の事象に喩えた話が人気を博す。尊敬する作家は柴田錬三郎。2019年7月には日テレHRアカデミアの理事に就任。また、演出家としてテレビ番組のプロデュースの他、最近では演劇、ロック、ダンス、プロレスを融合した「魔界」の脚本、総合演出をつとめる。

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