1586年1月18日、日本列島をマグニチュード8クラスの大地震が襲いました。東海、北陸、近畿は壊滅的な被害を受け、秀吉は早急な領内の復興を余儀なくされます。
徳川の領内の被害は比較的少なかったようですが、それでも荒廃し、戦を継続する力は残っていませんでした。この状態の徳川の討伐を秀吉は諦め、和解の道を選びます。
その理由は、よくわかっていません。
秀吉がその気になれば2、3年後ろ倒しにしても徳川討伐は可能だったでしょう。しかし秀吉は、家康を自身の政権に取り込むことを第一目標に変更します。
信頼の置けない配下の抑えとして家康を利用
これは推測ですが、秀吉は大地震を機に、戦を長引かせるより早く天下統一を果たしたほうがいいと考えたのでしょう。であれば最大の難敵・徳川と戦うより、自分の側に取り入れたほうが得策だと計算を働かせたのかもしれません。
さらに秀吉政権の配下は、ほとんどが織田の同僚たちです。子飼いの家臣ではないため、秀吉からすれば信頼を置けない者ばかりでした。彼らからの反感を抑える意味でも、織田唯一の同盟国だった徳川が自分の配下に入れば、自分への信頼もまた違ったものになると思ったのかもしれません。
もしも、それを説いたのが、あの石川数正だったら……。
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