ただ、家康としては父祖伝来の領土を手放すのですから、家臣の説得は難しかったでしょう。秀吉はそれも含めて、旧領150万石から100万石を加えた250万石という法外な加増を行いました。
もちろん滅びたばかりの北条氏の領地であり、当時は沼地が多く決して肥沃な土地ではなかったことを考えれば、そこまでの加増ではないという意見も頷けます。徳川家中でも同じような意見を述べる家臣も多くいました。
しかし家康としてはこれを請ける決断をします。このとき秀吉は重要なアドバイスを家康に送りました。江戸に本拠地を置くことを勧めたのです。大坂に一大都市を築いた街づくりの天才・秀吉は、江戸が大坂と同じように発展することを見抜いていました。
家康は秀吉のアドバイスを受け入れ、大坂をモデルとして江戸を開拓していきます。大坂からたくさんの商人を厚遇で迎え、商業都市として発展させていきました。
このことからも秀吉と家康の間には、我々が想像する以上の深い信頼関係があったようです。
秀吉の家康への信頼
関東へ転封以降、秀吉の家康に対する信任は一層厚くなります。石田三成ら秀吉子飼いの官僚たちは家康への警戒心は強かったようですが、秀吉の信任は変わりませんでした。
秀吉の中では、東日本は家康に任せるという意思があったようで、秀吉の後期の最大の失策とも言われる朝鮮出兵にも家康は外されています。これは、東日本の安定が家康の役割だったからです。
それでは、なぜ秀吉は、ここまで家康を重用したのでしょうか。
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