『源氏物語』に今も残り続ける謎
角田光代(以下、角田):私は訳しながらすごく不思議に思ったことがあります。紫式部はこんなに長い物語、こんなに複雑に入り組んだ人間関係を、紙が豊富にあるわけではない時代に、どのようにして整理して書いたのか。たとえば第22帖に出てくる玉鬘(たまかづら)が、実は第2帖で語られていたというようなことがよくあります。
山本淳子(以下、山本):『源氏物語』がどのように成立していったかということは、本当にわからないんですね。一番極端なことを申しますと、紫式部の書いた原稿はもう伝わっていません。今残っている写本の文章は、紫式部が書いたものという保証はないんです。
加えて、いつどういう順番で書いていったのかということは、彼女自身が証言していないのでわからない。でも客観的な証拠でいうと、1008年11月1日に、ある貴族が「このわたりに若紫やさぶらふ」と紫式部を呼んでいます。パーティー会場の入り口から「このあたりに若紫さんはお控えかな」と、紫式部を探しているんですね。
ですから1008年には「若紫」の巻が書かれていて、貴族にも読まれていたということは確実です。紫式部がそのパーティー会場にいたということは、藤原道長にスカウトされてお妃の彰子に侍女として仕えていたということです。紫式部が彰子に仕え始めたのが1005年12月29日ということはわかっています。ですから、1005年の年末までには『源氏物語』の習作を自宅で書いていたものと思います。