「真田信繁」家康に自刃を覚悟させた日本一の兵 49歳でようやく満天下に力を示し散った義の知将

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翌日、信繁は最期の決戦を挑みます。信繁は、最後の切り札と考えた豊臣秀頼の出馬にかけていました。しかしながら結局、秀頼の出馬はありませんでした。それでも信繁は、おのれの才のすべてをかけて策を練ります。

大野治房、明石全登、毛利勝永とともに出撃した信繁は、家康本陣を目指しました。このときの激しさは、やすやすと松平忠直の大軍を突破し、徳川の旗本を撃破し、2度にわたり家康の本陣に突入するほどのものでした。

家康の馬印が押し倒されたのは、武田信玄に蹂躙された三方ヶ原の戦い以来のこと。家康自身、自害を覚悟するほど強烈なものでした。しかし時間の経過とともに態勢を整えた幕府軍に包囲され、真田隊は瓦解。信繁も討ち死にします。

享年49歳。論語にある「五十にして天命を知る」を目前にしての幕切れでした。

NHK大河ドラマ『どうする家康』 松本潤 徳川家康
家康は天敵とも呼べる真田を高く評価していました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

信繁、伝説となる

信繁の戦いは敵である幕府軍から賞賛されます。島津忠恒は

「真田は日本一の兵(つわもの)」

とし、

細川忠興は

「左衛門佐は合戦場で討ち死に。古今なき大手柄なり」

と。

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黒田長政は、大坂夏の陣の図屏風を描かせ、その中で信繁の勇猛果敢な姿を配し、その戦いぶりを評しました。

いずれも戦国時代を生き抜いた歴戦の強者たちです。家康を含め幕府は、信繁への賞賛を禁じるようなことはありませんでした。

真田に何度も不覚をとった徳川が、それを正当化するために、あえて信繁を名将に仕立てたという説もあります。

しかし、もはや戦国時代も遠い昔になりかけていたこのころに、幕府に屈し、家を守るために己の野心を捨て生きざるをえなかった武将たちの目に、己が才を存分に発揮し、そのためだけに命をかけた信繁を羨み、輝いて見えたのではないかと私は思います。

そして、家康もまた、そのひとりだったのではないでしょうか。

眞邊 明人 脚本家、演出家

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まなべ あきひと / Akihito Manabe

1968年生まれ。同志社大学文学部卒。大日本印刷、吉本興業を経て独立。独自のコミュニケーションスキルを開発・体系化し、政治家のスピーチ指導や、一部上場企業を中心に年間100本近くのビジネス研修、組織改革プロジェクトに携わる。研修でのビジネスケーススタディを歴史の事象に喩えた話が人気を博す。尊敬する作家は柴田錬三郎。2019年7月には日テレHRアカデミアの理事に就任。また、演出家としてテレビ番組のプロデュースの他、最近では演劇、ロック、ダンス、プロレスを融合した「魔界」の脚本、総合演出をつとめる。

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