秀吉が死ぬと、天下は五大老筆頭の徳川家康と石田三成との対立が鮮明になります。真田家も、その渦に巻き込まれることに。石田三成は、全国の諸将に自陣営への参加を呼びかけます。
真田昌幸にも、この誘いがきました。昌幸は三成の誘いに乗ることにしますが、長男の信之は反対します。信繁は、義父の大谷吉継のこともあり父に従いました。
関ヶ原を前に家を割る真田
ここで真田家はふたつに分かれることになりますが、これはあえてのことと思われます。家を両陣営に分けることで、どちらが勝っても家を守れるという策だったのでしょう。
実際、真田家だけではなく、豊臣水軍の大将だった九鬼家も、父・嘉隆は西軍、息子・守隆は東軍について家名の存続をはかっています。
信繁は、父・昌幸とともに上田城で徳川秀忠の大軍と戦い足止めに成功しました(第二次上田合戦)。しかし関ヶ原で三成が敗れたため、所領を没収され九度山に蟄居することに。このとき信繁は33歳で、本来は死罪になるところを兄・信之の陳情により減刑されました。
ちなみに九鬼家も守隆の嘆願で父・嘉隆の死罪は減刑されましたが、その連絡が遅れ、嘉隆は自刃しました。
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